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八戸の歴史

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八戸の歴史

その昔、鎌倉時代の奥州征伐により、甲斐国(現在の山梨県南部町)の南部光行がその軍功としてこの一帯を授けられた事から奥州南部氏がこの辺りを治めることになりました。
そして時代は下り南北朝時代、同じく甲斐国で南朝(上皇)方の南部師行(もろゆき)が、陸奥国司北畠氏に従いこの奥州の地に下り、国司の代理として糠部(ぬかのぶ。現在の青森県南部地域)を管轄する事になりました。その際に、現在の八戸市根城に築城しましたが、これが根本の城ということで「根城(ねじょう)」と呼ばれるようになったと伝えられています。

その後約280年間この根城を中心に根城南部氏が治めていましたが、その後足利方の三戸南部氏(現在の三戸町に築城)が勢力を強めたため次第にそちらが主となり、江戸時代に根城南部氏は岩手県の遠野に国替えとなり根城の中心部としての役割は終わりました。
その江戸時代、幕府により八戸南部藩(二万石)が創設され、初代藩主として南部直房が三戸南部氏より迎えられました。そして、現在の八戸市の中心部にあたる内丸地域に八戸城を築き、以後200年以上この地域は八戸藩の南部氏により治められてきたのです。
H.net参照

是川遺跡

是川(これかわ)遺跡は、八戸市の南東部、新井田(にいだ)川沿いの台地に広がる縄文時代の遺跡です。昭和三十二年に国の史跡に指定され、広さは東京ドーム五個分、約二十四万五千平方メートルあります。
縄文時代晩期の亀ヶ岡(かめがおか)文化を中心とする中居(なかい)遺跡、前期・中期の一王寺(いちおうじ)遺跡、中期の堀田(ほった)遺跡の三つを総称して是川遺跡と呼ばれています。
是川遺跡は、大正〜昭和の初めにかけて八戸市の泉山岩次郎(いわじろう)氏、泉山斐次郎(あやじろう)氏によって発掘が行われ、出土品のすばらしさから全国的にも注目を集めるようになりました。
四千点を超える遺物(いぶつ)は、泉山両氏の手で大切に守られ、散逸することなく是川の地に残されてきました。
この遺跡を「縄文の里」として整備するため、発掘調査が平成十一年度から継続して行われ、多くの成果が得られています。
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根城跡

根城は、建武元年(1334)南部師行により築城されたと伝えられています。根城の南部氏は、南北朝時代には奥州における南朝方の中心的な存在として活躍しており、その領地は、当時糠部郡と呼ばれた広大な地域の中や津軽、秋田県の比内・仙北・鹿角・岩手県の閉伊・遠野にも認められています。しかし、南朝方が劣勢になるに従い、根城の南部氏も次第に勢力が弱まり、寛永四年(1627)には岩手県の遠野へ移封となりました。この城跡は、昭和16年12月13日に国史跡に指定されています。
 現在、根城には、本丸・中館・岡前館・東善寺・沢里館等の郭や多くの堀が良好に残っており、このうち、本丸については、発掘で発見された建物跡を基に立体復原も行われています。
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櫛引八幡宮

櫛引八幡宮は、鎌倉時代より南部藩(青森県南部・岩手県北部)の総鎮守として、多くの人々に尊崇されてきました。また、所蔵の国宝・赤糸威鎧をはじめとした宝物、国指定重要文化財の御本殿など、八幡宮全体が文化財となっております。
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源 義経北行伝説

源義経は、平泉・高館で自害せず、密かに脱出したと言われている。脱出後、八戸市内に上陸・滞在し、竜飛崎から北海道へ渡り、樺太、モンゴルへと移り、義経は成吉思汗(チンギス・ハーン)になったと言われている。
八戸市内には、義経が立ち寄ったと言われる場所が古くから伝えられており、800年以上経った現在でも、伝説として市民に受け継がれている。
≪八戸市内の経路≫
種差海岸(たねさしかいがん) → 源治囲内(げんじかこいない) → 館越(たてごし) → 高館(たかだて)
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